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2016年10月27日木曜日

登校拒否先生のその後

子どもの本音を言葉に変換!

感じて考えて書ける子に

岩下作文教室岩下春江です。




昨日は、岩下の醜い過去の恥さらしをしました。

★☆「実は先生になって2か月で登校拒否になりました」→→


そうです。
恥ずかしいことに、学校の先生になって
たった2か月で登校拒否になったのです。


|なぜ学校の先生になったのか


そもそも、登校拒否を起こすくらい嫌な学校の先生になぜなったのか?

最初からやめておけばよかったのに。


ふたつの相反する気持ちがありました。


ひとつは、自分が小学校の頃から思い続けていた
音楽の授業を、変えたいという思い。

あ、わたくし岩下、本職は音楽の先生です。

ピアノを習っている子だけができる音楽の授業に疑問を持っていました。
どの子も同じ土俵に立って
音楽を楽しめることは出来ないのか探り続け、大学院まで行きました。
結果、答えを見つけました。その答えはまたの機会に。


変えたいまではいかなくても、自分が学んだことを
試したい気持ちが大きかったです。

音楽というと「嫌い」「苦手」という子どもが多いけど、
それをなくしたい。

私の授業を受けた子は、少なくとも音楽を嫌いにならない、
そんなことを目指していました。

「音楽の授業を変えたい」という思い。


しかし半面、「学校の先生」という職業が、好きではありませんでした。
なぜなんだろう?
ちょっと今、思い出せません・・・

音楽の授業を変えたいけれど、
学校の先生は嫌。

そして、教育学部は学校の先生になる、という流れだったので、
その時の私は、大きな口は叩くけれど、
実際に行動する勇気は、まったくない情けない人間でした。

そんな流れで、学校の先生になってしまったのです。




|どうやって復活したか入院騒ぎ その後



さて、先生なって2か月で登校拒否になったのち、
家に校長先生まで来て
これは困った、どうしようもない、
そんな状況になってしまいました。

そして、自分が現実には口ばっかりで
何の行動もできていない事実を認めざるを得ませんでした。



校長先生が復職を勧めてくれました。

キリがいい二学期の始業式からでは馴染めないかもしれないから、
一学期最終週だけでも来てみれば、と提案してくれました。

その提案を受け入れました。

校長先生に感謝ですね~今思うと。
ひとり減ると現場が大変になるというのも実際ありますが、
それでも、声を掛けてもらえなければ、汚点のままでした。


復帰後、先生方に謝りましたが、その情けなさ、
申し訳なさ、自分のダメさ加減、
つくづく身をもって感じました。

特に自分の思い上がりが招いたことだという恥ずかしさ。


学校では体調不良ということになっていましたが、
明らかに、登校拒否ですし、先生方も生徒たちも分かっていたはずです。


ですが、不思議なことに
「何か言われたら嫌だ」という気持ちはありませんでした。


言われていることは分かっていたから。

自分が蒔いた種だから。

気付かないようにして、日々の仕事をしていました。



校長先生の判断は正しかったです。

二学期から復職だったら、やはり行きにくかったです。
一学期最後の一週間だけ、登校できたことで、
自信と職場への慣れもできたし、
一週間だけ行けば、夏休み、という区切りもよかったです。


|登校拒否先生が壊れた!?



2学期が始まりました。
行事オンパレードです。

吹奏楽部顧問だった私は、文化祭の選曲、
練習と、頑張りました。

そして、何を思ったか、
文化祭で吹奏楽をバックに歌っちゃった!!!

1曲、マイク持って、ライト浴びて、歌ったんです。
恥ずかしいという気持ち、ゼロではなかったけれど、

それより自分の本当の姿を
取り戻したかったのかもしれません。


そう。
文化祭で合唱コンクールがありました。
合唱コンクールは私が目指している音楽ではないので、
それに染まりたくないという気持ちもあったかもしれません。
私、今でも正直嫌いです。

理由は色々あったはずだけど、

なぜか、「私は歌うんだ」と決めました。

周囲の反響?
「すごいね」だったかな。

「登校拒否したくせに、みんなの前で
恥ずかしげもなく歌うなんてすごい」

の意味ですよ。間違いなく。


|2年後の変化



文化祭の後も問題は色々ありました。
音楽の授業が成立しないのは日常茶飯事。
机やいすが飛び交いました。

授業を何とかしたくて、勢い余って
勝手に筑波大付属中へ授業参観に行ったこともあります。

結果、校長室で校長と教頭からこっぴどく叱られました。

未熟な人間がゆえに犯した問題・・・数知れず。


でも、なんだか先生たちの仲間に入れてもらえるようになりました。

ある時は、私の仕事の多さが尋常じゃないことを心配して、
先輩先生がわざわざ呼び出して仕事のやり方を教えてくれました。

それは、あなたがやるべき仕事じゃないから、今からでも断りなさい、と。


そして、2年が経ちました。

最初に赴任した学校は、3年で異動するというのが、
当時の暗黙の了解でした。

私にも異動の話が来ました。

当時中学2年の副担任だったのですが、
学年の先生から、
「あと1年一緒にいて、一緒に卒業しよう」
と言ってもらえました。


登校拒否していた頃の私だったら、
そんなことを言ってもらえるはずがありません。

引き留められて、ありがたいと心から思いました。



*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

中学校で働いていた3年間は、
つくづくみっともない自分を突き付けられた時間でした。


赴任した翌日から来なくなる新人先生もいた中で、
登校拒否になった私が、
よく復活できたなあと自分ながら感心します。

多分、復活できたのは、

あれ

のお蔭じゃないかと思うんです。

あれ

です。

あれ。

(つづく)